12月の、ある水曜日の夜でした。
日付が変わって、もうすぐ3時。事務所の暖房を切って帰ろうとしたとき、スマホが光りました。LINEの通知。
「誰にも相談できなくて」
「もう限界です」
アイコンは花の写真。名前は田中さん(仮名)。
プロフィールを見る限り、女性。それだけしかわかりません。
すぐに返信しました。
「大丈夫ですよ。時間は気にしないでください。よかったら、少しだけお話聞かせてもらえますか」
既読がついたのは、3秒後でした。
ずっとスマホを握りしめていたんだと思います。
そこから1時間、田中さんは少しずつ話してくれました。
結婚して7年。5歳の娘・あかりちゃん(仮名)がいる。
夫のことは、今でも好き。家族3人の生活が、何より大切。
最初の「違和感」は、半年前でした。
夫が急にスマホにパスワードをかけるようになった。7年間、一度もかけたことがなかったのに。聞いたら「会社のセキュリティポリシーが変わった」と言われました。
——そうなんだ、と思おうとしました。
次に気づいたのは、残業の頻度。週に1回だったのが、気づけば週3回になっていました。しかも金曜日ばかり。帰宅は深夜0時を過ぎることが増え、「先に寝てていいよ」というLINEが当たり前になりました。
ある日、洗濯物を畳んでいたら、夫のスラックスのポケットから知らないカフェのレシートが出てきました。日付を見ると、「残業」と言っていた水曜日。場所は会社と反対方向の駅。金額は2人分。
心臓が、ドクンと跳ねました。
でも——「気のせいだ」と思おうとしました。
2人分のコーヒーなんて、同僚と飲んだだけかもしれない。残業のあとに気分転換で遠くのカフェに行くことだってある。そう自分に言い聞かせました。
だって、疑いたくないんです。
この人を選んで結婚した。子どもも生まれた。家族で過ごす休日は本当に楽しい。あかりがパパに抱っこされて笑ってる姿を見ると、「やっぱり大丈夫だ」と思える。
でも。
夜、ベッドに入ると、頭の中がぐるぐる回り始めるんです。
「なんで金曜日ばかり残業なんだろう」
「あのレシート、なんで会社と反対方向だったんだろう」
「最近、お風呂に入る前にスマホを持っていくようになったのは、なぜ」
夫が隣で寝息を立てている。その寝顔を見ながら、涙が出てくる。好きなのに。信じたいのに。どうしても頭から離れない。
朝4時。眠れないまま布団の中でスマホを握って、「旦那 残業 多い 不倫」と検索している自分がいました。
それから3ヶ月。田中さんは誰にも相談できませんでした。
実家の母に話したら、きっと「あんた、しっかりしなさい」と言われる。
友達に相談したら、噂になるかもしれない。
ママ友には、絶対に言えない。
仕事中もぼんやりしてしまい、上司に「最近、体調悪い?」と聞かれるようになりました。「大丈夫です、ちょっと寝不足で」と笑ってごまかす。トイレで泣く。化粧を直す。席に戻る。それを繰り返す毎日。
食欲がなくなりました。夕飯を作っても自分だけ箸が進まない。あかりが「ママ、ごはん残してるよ?」と不思議そうに見てくる。「ママ、お腹いっぱいなの」と笑う。それがつらい。
3ヶ月で、体重が4キロ落ちました。
「私がおかしいのかな」と思いました。
「考えすぎなのかな」「嫉妬深いだけなのかな」「こんなことで悩んでる自分が情けない」。
でも——ある夜、決定的なことが起きました。
夫がお風呂に入っている間に、リビングのテーブルにスマホが置いてあった。通知が光って、目に入ってしまったんです。
知らない名前。女性の名前。
「今日はありがとう😊 また会えるの楽しみにしてるね」
頭が真っ白になりました。
手が震えて、スマホを持てなかった。
お風呂から出てきた夫は、いつも通り「あかりちゃん、もう寝た?」と笑っていました。その笑顔が、もう同じに見えなかった。
その夜——布団の中で、震える手で「探偵」と検索しました。
探偵なんて、テレビの中の話だと思っていた。まさか自分が検索する日が来るなんて。
いくつかのサイトを見ました。でも「成功率No.1」「業界最安値」と書いてあるページは、どれも営業っぽくて怖かった。こっちはこんなにボロボロなのに、ビジネスの話をされてもついていけない。
そんなとき、たまたまカモシカ探偵社のページを見つけました。
「匿名で相談できます」「LINEだけでもOK」。
その一言に、すがるような気持ちでLINEを送りました。
深夜2時58分。
「こんな時間にすみません。誰にも相談できなくて。もう限界です」
翌日の午後。田中さんは事務所に来てくれました。
ドアを開けた瞬間、目が赤いのがわかりました。昨日も、きっと泣きながら朝を迎えたんだと思います。
冬のコートを脱ぐ手が、小刻みに震えていました。
私はまず、温かいほうじ茶を出しました。そして30分間——調査の話は一切しませんでした。
田中さんが話してくれたのは、夫との出会いのこと。大学のサークルで知り合って、3年付き合って結婚したこと。プロポーズは近所の公園のベンチだったこと。あかりちゃんが生まれたとき、分娩室で夫が泣いていたこと。
楽しかった思い出を話しながら、田中さんは泣いていました。
「好きなんです、まだ。おかしいですよね、不倫されてるかもしれないのに。でも、あかりがパパって駆け寄っていく姿を見ると、この家族を壊したくないって……」
おかしくないです、と伝えました。
「好きだから苦しいんです。どうでもよかったら、こんなに悩まない。田中さんがここに来てくれたこと自体が、家族を大切にしている証拠です」
田中さんは、しばらく声を出さずに泣いていました。
ティッシュの箱を近くに置いて、私はただ、隣にいました。
少し落ち着いてから、田中さんは言いました。
「離婚したいわけじゃないんです。ただ、事実が知りたい。白なら白で、安心したい。でももし本当だったら……どうすればいいのか、わからなくて」
「それでいいんですよ」と私は答えました。
「今、何も決めなくていいんです。まず事実を知ること。それだけで十分です。事実がわかれば、選択肢が見えてきます。離婚も、修復も、もう少し考えるという道もある。どの道を選んでも、私たちは最後まで一緒に考えます」
調査は、翌週の金曜日から始めました。
田中さんの話から、金曜日の「残業」がもっとも怪しいと判断したからです。
調査員2名体制。夫の退勤を会社の最寄り駅で確認し、そのまま行動を追いました。
1回目の金曜日——夫は本当に残業して、まっすぐ帰宅しました。
このとき正直、「白かもしれない」と思いました。もしそうなら、それは田中さんにとって一番いい結果です。
2回目の金曜日。
夫は19時に退勤しました。でも、自宅と反対方向の電車に乗りました。
3駅先で降りて、駅前のイタリアンレストランへ。先に席についていた女性と合流。2人でワインを飲みながら、2時間。食事を終えると、歩いて5分のマンションに、2人で入っていきました。
23時過ぎ。夫がそのマンションから出てくるところを、調査員が撮影しました。
報告書ができたのは、その翌週のことです。
田中さんに電話をかけなければなりませんでした。
正直に言います。
この電話をかけるとき——毎回、手が重くなります。
「もしもし、田中さん。調査が完了しました」
電話の向こうで、田中さんの息が止まるのがわかりました。3秒くらい、沈黙がありました。
「……やっぱり、そうだったんですね」
声は、不思議なほど静かでした。
たぶん、心のどこかで覚悟していたんだと思います。「そうであってほしくない」と祈りながらも、「きっとそうだろう」とわかっていた。半年間の違和感は、間違っていなかった。
「田中さん、報告書はいつでもお送りします。でも、今すぐ何かを決める必要はありません。まずはご自身のペースで、受け止めてください。もし話したくなったら、いつでもLINEしてください。深夜でも、朝でも。私たちはここにいます」
電話を切ったあと、田中さんからLINEが来ました。
「でも不思議と、少しだけ楽になりました。ずっと『気のせいかも』って自分を疑ってたので」
「私の違和感は、間違ってなかったんですね」
「間違っていませんでしたよ」と返信しました。
「田中さんの直感は、正しかったです」
3日後。田中さんは報告書を持って、夫と向き合いました。
最初、夫は否定したそうです。
「何の話?」「そんなことしてない」「お前、探偵なんかつけたの?」
田中さんは、写真を1枚だけ、テーブルに置きました。
女性と並んでマンションに入っていく写真。日付と時刻が鮮明に記録されていました。
夫は、黙りました。
それから——20分間、何も言わなかったそうです。
そして、泣き始めました。
「ごめん。ごめんなさい。全部本当です。でも、お前とあかりとの生活を壊したいわけじゃなかった」
田中さんは言いました。
「壊したくなかったなら、なんで?」
夫は答えられなかったそうです。ただ、泣いていた。
その日、結論は出ませんでした。
でも、田中さんから翌日LINEが来ました。
「でも、初めて対等に向き合えた気がします。今まではずっと、疑っているのに何も言えなくて、夫の顔色ばかり見ていました」
「証拠があったから、泣かずに話せました。
気持ちに振り回されず、落ち着いて向き合えたんだと思います」
それから、半年が経ちました。
6月のある日。事務所に1通の手紙が届きました。
封筒の裏に「田中」と書いてありました。
正直、指が震えていました。
探偵に相談するなんて、自分の人生で起きるとは思っていませんでした。
でも、3分後に返信が来たとき——
『ああ、この人たちは本当にいるんだ』と思って、張り詰めていたものが少しだけゆるみました。
あれから夫とは、何度も話し合いました。
2ヶ月くらい、家の中がぴりぴりしていた時期もありました。
でも夫は相手との関係を断ち、毎週金曜日は早く帰ってくるようになりました。
先月、家族3人で動物園に行きました。
あかりがカモシカの前で『ママ、カモシカだよ!』って叫んだとき、不覚にも泣いてしまいました。
夫に『どうした?』って聞かれて、『何でもない』って笑いました。
あのとき調べなかったら、今もモヤモヤしたまま、夫の顔色を見ながら暮らしていたと思います。
もっと関係が壊れてからでは、遅かったかもしれません。
証拠を取ったから離婚したんじゃない。
証拠を取ったから、やり直せたんです。
カモシカ探偵社の皆さんは、探偵というより、人生の相談相手でした。
本当に、ありがとうございました」
この手紙を事務所で読んだとき、私は1人でしばらく動けませんでした。
正直に言えば、この仕事は楽しいことばかりではありません。
誰かの「信じたい」を壊す結果を届けることもある。
報告の電話をかけるたび、「この人の人生に関わっていいんだろうか」と自問します。
でも、田中さんの手紙を読んで——改めて思いました。
事実を知ることは、終わりじゃない。始まりなんだ。
知ったから、向き合えた。向き合えたから、やり直せた。
あるいは、知ったから、自分の足で新しい道を歩き出せた。
どちらの結果であっても——「あのとき相談してよかった」と思ってもらえること。
それが、私たちカモシカ探偵社が、この仕事を続けている理由です。